大谷記念館
大谷光瑞(鏡如)上人について
大谷光瑞(鏡如)上人は、浄土真宗本願寺派本願寺明如宗主(第二十一世)の長男として明治9年誕生した。天資英邁にして気宇広大。28歳で二十二世の法灯を継ぎ、39歳で辞任するまで、視野を広く注ぎ、教団の国際化をはかるため、仏蹟探検(大谷探検隊)・海外伝道を手掛け、内にあっては、宗祖親鸞聖人650回大遠忌を未曾有の盛儀のなかに厳修し、宗制刷新、人材育英と教団の拡大と法義宣布に尽力した。
辞任後は、アジア各地を歴訪し、各地に別荘や庭園を構え、農園経営や人材養成、仏典研究(梵本翻訳)等、その業績は一宗門内にとどまらず、政界、経済界、産業界、教育界等々、広く時代の寵児となり、思想家、実業家として多くの支持と称讚をあびた。
昭和23年、病気療養中の別府市鉄輪で示寂した。この大谷記念館は上人遷化の地・別府に建てられた別院に創設され、大谷家より下附された法衣法具、並びに遺墨、遺品、著書、旧蔵書等を陳列し、遺徳を偲ぶものである。
鏡如上人略譜
明治9(1876)年 | 十二月二十七日誕生。幼名峻麿。 |
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明治31(1898)年 | 九条道孝公第三女(貞明皇后姉君)籌子の方と結婚。 |
明治32(1899)年 | 印度仏蹟巡拝と欧州宗教事情研究のため、御出発。 |
明治35(1902)年 | 欧州より西域探検に向かわれる。(第一次西域探検) |
明治36(1903)年 | 明如宗主御遷化により第二十二世本願寺派管長を継承される。 |
明治41(1908)年 |
第二次西域探検を命ぜらる。 神戸六甲山に別荘二楽荘を建設する。 |
明治44(1911)年 |
籌子裏方御往生。(享年三十歳) 宗祖六百五十回大遠忌を厳修せらる。 第三次西域探検を命ぜらる。 |
大正3(1914)年 |
本願寺派管長を辞任。外遊に向かわれる。 以後三十年、大連、上海を根拠地として御活躍さる。 |
昭和15(1940)年 | 内閣参議とならる。 |
昭和22(1947)年 |
引揚船により御帰国。 別府亀川国立病院に御入院。鉄輪にて御静養。 |
昭和23(1948)年 |
十月五日、鉄輪別荘にて御遷化。 (享年七十三歳) |
鏡如上人と升巴陸龍
升巴陸龍は、明治15年大分県西国東郡岬村(現香々地町)長泉寺住職升巴普行の長男として生まれる。生来聡明にして性温厚篤実。
京都在学中、上人の薫陶を受け、その愛するところとなり、お側付きとして、仏蹟巡拝記編纂係、教学参議部出仕、海外随員を歴任し、明治37年22歳の時には関東別院(大連)初代輪番に任ぜられ、教団の海外拡充の魁として大い辣腕をふるった。
大正8年惜しむ可。37歳にして夭逝。
当記念館は、上人の信頼とそれに応える陸龍の往復書簡やパスポート、インド渡航時の資料を収蔵する。
鏡如上人と精舎昌美
精舎昌美は、広島県豊平町仙徳寺の出身。明治45年、地元の高等小学校在学中に選抜され15歳で六甲の武庫中学に入学。大正3年武庫中学閉鎖と同時に上人に随行し中国に渡った。抜群の語学力で特にロシア語が堪能で、浦塩東洋学院講師の経歴を持つ。
上人の絶大なる信頼を得ていた昌美だが大正10年8月8日、肺結核により神戸の須磨病院で24歳の若さで亡くなっている。
本願寺新報(平成7年10月10日号)で当記念館の記事が掲載されたのを機に、仙徳寺住職が当館に資料の調査を依頼。上人の直筆の書簡、写真等多数の資料が初めて研究者の目にふれた。